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当たり前に享受できるはずの機会を逃したら「もったいない」と思っていいのだ
光延 幸紘/Yukihiro Mitsunobu【COO】

自分の力だけではどうにもならないことは存在する
福岡県大牟田市の出身です。福岡といっても博多のような華やかな場所ではなく、大牟田はかつて炭鉱の町でした。閉山後はお店も次々となくなり次第に寂しくなるといった地域で、高校までここで育ちました。
私は運動が苦手な子でした。体の特徴や病気など、明らかな理由があるわけでもないけど、小中とマラソン大会は最下位をキープしてしまうような、単純に運動神経が鈍い子供だったからだと思います。口が達者だったり勉強がそこそこ得意だったりしたため、スクールカーストの下位に来ることもないけれど、なんとなく同級生からは特別な扱いを受けるなど、微妙な居心地の悪さを味わったりなどもしました。
そのころすでに「真面目にやっても不得手で仕方ないものはあるし、頑張らなくても得意で評価されてしまうものもある」なんてことを思っていました。
ーーーーポケモンカードがお好きだったと伺いました
そうそう。小学校の高学年の頃、世の中には「ポケモンカード」が出てきて、子供たちの遊びが大きく変化しました。
それまでは、ファミコンなどのゲームも存在したけど、ミニ四駆やヨーヨーなど、外で遊ぶものが子どものメインの遊びでした。そこに「インドアのポケモンカード」が外での遊びと同等の位置づけで選択肢として登場したのです。
母が外で働き始め、ゲーム機を持たずにひとりで遊ぶ時間が多くなった私は、ポケモンカードにハマりました。福岡の地方大会では、4位になるくらい強くなっていました。本来は上位3位までが東京の大会に進出するというルールでしたが、当時は景気が良かったからか、ギリギリ4位までが東京までの出場を認められ、旅費を出してもらって母と一緒に東京の大会のある幕張メッセまで行ったんです。大会では、予選で即敗退しましたが、そのあと母に秋葉原のカードショップまで連れて行ってもらったように思います。
地元では、ポケモンカードは子供たちだけの遊びだったけれど、東京にはおもちゃ屋さんではなく「カードショップ」があり、大人が高額のカードにお金を払っていました。かなりのカルチャーショックでした。カードショップでは、大人もプレイに参加して、戦略を競います。すごいギャップでした。東京の子たちのカードのレベルの高さは、同じ学年と思えぬ強さでしたが、この先進性はどうやっても埋められない格差でした。
大牟田の田舎では、商店街がどんどん閉店していく光景に比べると、秋葉原はキラキラと輝いて見え、将来は東京に出ようと決めるきっかけにもなりました。あのときポケモンカードで感じた情報格差や地域格差は、私にとって、大きく影響のあった経験でした。
ポケモンカードのバイトから学んだこと
中学時代は、とにかくインターネットに没頭した日々でした。自分のホームページを作ったり、テキストサイトを作ったり。父のWindows 98は、私がほとんど使っていました。SNSもなければブログもない当時、自分の思考を他人と共有するためには、自分でホームページを作るしかなかったんですよね。インターネットでポケモンカードについて調べたりして、各地のポケモンカード仲間たちと情報交換をしたりしていました。
高校時代はリネージュ2というなかなかレベルが上がらないゲームに没頭してしまい、大学受験はちょっと失敗してしまったかなと思います。東京には出たかったので、私大の文系ということで立正大学に入学。
真面目に授業に出るわけでもなく、映画製作系のサークルにも所属はしましたが、バイトに明け暮れる生活となりました。もともとは仕送りだけで生活するつもりだったのですが、友人に見せてもらったバイト情報誌に載っていたところが良さそうで。
ーーーーここでポケモンカードのバイトを始められるのですね(笑)
当時としてはなかなかの時給で900円スタート、狭き門でした。でも面接ではいい問題が出されたと記憶しています。
「子供がルールを守らない時、あなたはどうしますか?」と問われるんです。私は「自分もルールを守りたくないタイプでした。子供たちには、どうしてルールを守るべきか、それがどういう影響を与えるか、そういった事を理解してもらうことが重要だと思います」と答えました。
dataisという会社は、たとえ短期間でも人が成長できる会社になっているなと思います。私はこのポケモンカードのバイトでの経験が重なるんです。夏休みなどの長期休みには、ポケモンカード大会の運営に携わり、普通の週末には子供たちにポケモンカードのルールを教えたりカードの販売などをしていました。
ポケモンカードというのは、基本的には足し算と掛け算です。引き算も便宜的には必要。平均すると2年生ぐらいから教えることが多いのですが、幼稚園の年長さんでもできる子はできる。文字が読めること以上に大事なゲームのエッセンスを理解して動かせる子はいました。
その子の理解力に合わせてカードを選び、自分はその子の対戦相手としてどう振る舞うかを決める。負けてあげればよいということでもなく、子供たちがギリギリのところで考えて、どのカードを使うべきか、どういう戦略で戦うべきかを一緒に考え、勝つための方向性を見つけられるようにするんです。
集中力も個性もそれぞれ違う子供たちと向き合うこと、親の反応を読み取ること、兄弟が一緒にいる場合の対応といった経験を通じて、人に教えることの楽しさを知りました。
パターンを読んで提案営業で社内利益1位を達成
中2のときの英語の先生が本当に嫌いで、中2から英語を全くやらなくなってしまい、大学受験の英語の偏差値では28を叩き出しました。偏差値で20台って出るんだ!ってね(笑)
そのような英語力の私でしたが、大学の英語の授業は「優」でした。
英検で確か準2級を持っていて、その力だけで、授業はほとんど出席せずに単位を取得。周りの学生は長文の作文ができないし、本もあまり読まないようで、残念な大学に来てしまったとがっかりしてはいたんです。この大学はダメだなと思って。
就活が本格化したのは大学4年の春。出張のある会社がいいなと考え、大手航空会社のグループ商社を受けました。グループディスカッションでものすごく緊張してしまったためか、落ちてしまいました。過去2回だけ胃痛を経験したことがあるのですが、そのうち1回がこのときでした。一度は留年も考えたのですが、仕送りを頼めないと思い、やむを得ず再開。その後、秋葉原に本社を構える専門商社に就職しました。
その頃、私たちは特約代理店として、数え切れないほどのメーカーからの仕入れ、見積もり作成、納品という日々のルーティンをこなしていました。しかし、急な在庫切れにより、以前は購入していたお客様が他の代理店へ流れる事態もしばしば見られました。
私が初めて担当になったのは、私たちと長い付き合いのある会社で、その社屋は僕の働く場所から歩いて2分ほどの同じ町内にありました。当時はFAXで見積もりを送り、その量は1日でジャンプ1冊分ぐらいに積み重なっていたものをシステムに打ち込み、在庫を確認し、価格を2割増しにしてFAXで送信していました。
そんな中、一部のお客様が一定の周期で同じ製品を購入しているというパターンに気付きました。これは、商社を通じてメーカーが製品を提供しているという事実から見つけたもので、それまでは急に発注が来て受注生産だからすぐには在庫がないとされていました。特定の製品を何ヶ月に1回買うという傾向があり、それは実験の頻度等によって変動するというパターンが読めたので、在庫が無くなりそうになった時点で、新たに製品を提供できるような提案を行うようにしたのです。
また、見積もりが紙にしか書かれていなかったため、それまで誰が何をどのように行ったかは把握できていなかったんです。だから私は、自分の分だけをコツコツと保存し続けていたんです。新卒後2年半働きましたが、売上は全社で2位、利益は1位を達成しました。
とはいえ、私が入社したのはちょうどリーマンショックの後で、会社が厳しい状況。これだけ努力しても売上を伸ばすことは難しいと感じ始めました。国内生産が海外に移転する傾向もあり、取引が減少していきました。自ずと「もっと伸びしろのある業界へ行きたい」という思いが芽生え始めました。
「オレこっち側の人間なんで」と伝え転職
1社目の会社は毎日朝礼があって、誰か1人が2~3分スピーチをするんですね。最近見た映画の話とか、こんな業務頑張りましょうとか。私ともう1人の先輩だけユニクロの柳井さんや、ソフトバンクの孫さんの話なんかをしていたんですが、上の人にはあまり評判がよろしくなかったみたいなんですね。あるとき課長に呼ばれました。それは成功する一部の人の話だから、君たちは地に足をつけて粛々と頑張りなさいと言われました。
私は「違うんです。僕はこっち側の人間なのでこれは変わりません」と言いました。若かったですね。
ーーーーすごい!それ言ったんですか(笑)それで実際にソフトバンクへ転職して孫さんとお仕事をするわけですよね
ソフトバンクには約12年務めました。はじめの2年は法人営業で、その後は法人顧客向けの通信にまつわる企画を推進する部門に10年。電波の困りごとをなんとかする仕事です。
その中で、特に嬉しかったエピソードが、東北のある県に基地局を建設したことです。この事業が始まった背景には、現地の法人顧客から「電波の状態が悪く、接続が難しい」という声が上がっていました。空港から主要都市に向かうメインの道路なのに圏外になってしまうのです。解決手段は基地局を建てる以外なく、本来であれば対応ができない案件でした。しかし幸運にも社内の調整が進み、予算が確保でき、基地局を建設することができました。
空港につながる主要な国道なんてつながって当然という感覚だと思いますが、地方は東京と比べると投資額が少なく、電波の状況も悪い。そのような状況の中で、基地局が建設され、道路沿いの電波が安定したことは、地方の住民にとって非常に価値のあることだったと思います。
かつて田中角栄が「東京で人が倒れたら救急車で運ばれるが、新潟の山奥で倒れたら翌朝まで見つからないから死んでしまう」と言ったことがあります。同じ日本なのにこんなことが起きてはいかんという話ですが、私はそれと同じようなことを秋田県の村に対して思いました。同じ日本で、同じ携帯料金払ってるのに。山奥の地を選んで暮らしている人が「東京と同じようにつながるようにしてくれ」という要望は知ったことではないが、地方も当たり前に享受できるべきことはある。秋田では当たり前のインフラを提供できたことがすごく嬉しかったです。
私は、自分がコスパ良く生きたり、ずるがしこく生きたりが得意な方だと思うんですが、世の中にはそれが全然できなかったり、受け取るべきメリットを享受できていない人がいる。それってもったいないなと思ってしまうんですよね。プラスになる話も、あたかもプラマイゼロのようにメリットが語られないことが分かるとすごく憤りを感じます。例えば東京では5Gがますます早くなりYouTubeが見やすくなっている一方で、山奥で携帯が繋がらなかったせいで救急車が間に合わずに亡くなる人がいる。配分を間違っている気がします。当たり前に生きていたら享受できるもののはずなのに、本人の変えられないところで、享受できない状況がイヤなんです。
3人の作りたい世界が一致していると感じた
ーーーまささいとう氏との出会いについて教えてください。
ソフトバンクアカデミア(孫正義氏の後継者育成プログラム)の知人に頼まれ、その人の代わりとしてソフトバンクが協力しているプロジェクトのメンターとして顔を出したところで出会いました。人生の分岐点って意外なところにあるんだなと感じます。
渋谷のレガシーを残そうというテーマで、よりよい街をつくるといったビジネスコンテストでした。私は代打だったためキックオフではなく中間発表の場に居合わせたのですが、次からもし時間あれば、と誘われて継続的に顔を出すようになりました。
彼は何か渋谷区にも仕事の提案をしたかったから行ってこいって言われてやってきた社会人3年目。ソフトバンクがチームメンバーの面倒を見ているような関係でした。隔週か週一回ソフトバンク本社に呼んで進捗を聞いてメンタリングをする。そこに彼は毎週ちゃんと来ていいました。ビジコンは終了したのですが、その後しばらくして飲む機会があり、そのとき「僕は必ず起業しますので!」と言っていました。
その後「事業の壁打ちさせて」と彼が言ってきたのは、2020年の11月末。いろいろあって共同創業メンバーと仲たがいをし、事業もなんだかふわっとしていたんですよね。それからずっと手伝っています。
ーーーーそのときの印象はどうだったんですか?
まず、事業のPL(損益計算)を聞いて「うん、これもう潰れとるやん」って思いました(笑)資本金は30万円しかないのに、毎月の収入よりも支出が多い状態が創業からずっと続いている状態。事実上は倒産していたんです。
サービスのコンセプトはよかったんです。しかしそこから派生するマネタイズプランが「声をもとにして波形にしたものを絵にして売る」って言うので「これはヤバい」と(笑)落ち着け!と思って、手伝ってしまった。
元々は、いろんな現場に出張してはプロジェクトを進めてくる仕事をしていたのに、コロナで世の中が止まってしまった。だから、社内業務の体制が止まって、少し時間に余裕があったというのもあります。
ビジコン後、会わずにいた1年の間に、まささいとうは営業としても、事業としてもインサイドテックで頑張ってスキルアップしていました。
2021年の2月、ボイスメッセージカードで、島根県の隠岐島前高校の寄せ書きを作ってメディアに打って出ようというアイディアが出たときに彼は「いいですね!なんとかしましょう」と言って、本当に何とかしたんです。そのとき「すごいじゃないか」と思いました。クラファンで、知り合いを見つけ卒業生を見つけ、卒業生から先生に話を通して、営業してきたんです。私が「まささいとう、ちゃんと仕事するヤツだな」と思ったのは、この出来事がきっかけでした。
2022年からは営業コンサルの仕事も増え、役員報酬が出せるようになってきました。コンサル業に本腰をいれていくために、クライアントの営業リストなどを作る業務があり、データベース作成が始まりました。それが今のメインプロダクトです。営業コンサルをしていく中で、自分たちが実際に使っていたソリューションをプロジェクトにしました。現在のdataisのデータベースでは法人番号で全ての企業の情報を取ってきているので、法人格があれば必ず情報を出せます。
でも5月時点までは、全500万データを取得する目途が立っていなかったため、1万社か2万社かに絞って取得したんです。その状態で企業向けに不動産大手の担当者の前でデモをする機会を得ました。ところが、どんな企業名を聞かれても「出てこない」という地獄の商談となってしまい、その後は反省会でした。
いけぽんすが「全部やりましょう」と頑張ってくれたおかげで、2022年の6月からはすべてのデータを格納できています。地獄の商談をした企業にもリベンジの機会をいただき、そのときはすべて表示できました。
その頃には、事業もだいぶ軌道に乗ってきたので、まずはいけぽんすが前職を辞めてフルタイムで専念してもらうことにして、私も徐々に移ろうという気持ちを固めていきました。
ーーーー会社を移ろうと決心するにあたり、何が決め手となりましたか?
可愛がっていた若者のビジネスを手伝う、ぐらいの思いで始めたはずが、いつの間にか「まささいとう意外とちゃんとやるんだな」と印象が変化してきて。そこにいけぽんすも仲間になり、dataisに何かしら気持ちが芽生えてきていました。
2人が3人になってスピードも上がり、世の中に価値を提供できるようになり、あればいいのになというものがどんどん具体的にできていました。3人体制になったのが決定打ですかね。ミッションにも非常に共感していました。
「頑張れば明日が良くなるような、明日に希望が持てる社会に」あれ、いいですよね。ちゃんと頑張っても評価されないというと思うし、理不尽なことがなくなっていく。
仕事って、手を抜いてもお金をもらえるときがあると思うんです。でも、それは気に食わない。もっとこうしようぜ!と声をかければ、2人とも「そうですね」「やりましょう」「いいですね」と言ってくれる。バイブスが合うというか、「そこまでやる?」「それは大変だからやめとこう」というのはあまりない。ここまでと言わず、こっちまでやってあげたい、作りたい世界が、温度感が一致していたと思います。
テクノロジーでデータが価値を生むところまで目減りさせない仕組みを目指す
テクノロジーが進歩しているほどは、人の生活って幸せになってないと思うんです。本当はこんなに進歩していたら、もっともっと幸せになっていいはずなのに、技術が人を幸せにするまでにだいぶ目減りしてしまっていると感じています。例えるなら、100万円の大きな宝石が出たのに、人がいるところまで転がして運んでいるうちに削れて小さくなっちゃった、みたいなイメージです。
進化しているテクノロジーも、使いこなせなかったり政治的な問題があったりして、本当は100幸せなのに、10ぐらいしか享受できていないと思う。それを極力99までに引き上げたいんです。テクノロジーがきちんと価値を生むところまで目減りせずにいくような仕組みを作って行きたい。
dataisはリストを作って終わりじゃない。昼ご飯に何を食べたか、コンビニで何を買ったか、全てがデータですが、うまく使えていない。データは広告で悪用するだけではなく、ちゃんとした使い方があると思うのです。そうすれば、もう少し健康になれると思う。
dataisの社名は「データ化する(datize)」という動詞からも取ってきているんです。価値の根源となるそのデータ、エネルギーをきちんとロスなく、しかるべき形にしなきゃなと思います。そうでなくちゃもったいない。日本は個人情報保護が難しいのですが、個人の情報がもっとその人個人のために使われるような世界になればいいなと思います。
どんな人が働くと面白い職場か
「おかしい、ここはこうだったらいいのに」など、事業を見て思うことがあったとき、それを徹底的に議論し、納得するまで議論が行われるか、あるいは本当にそっちが正しければ「そうなる」し、「今は仕方ないんだよ」とはなりません。
という環境にdataisはあります。社風なのかな。そういったことを大事だと思っている人たちが集まっている場所です。
また「やっつけ仕事」は何にもならないと考えています。その仕事の結果が出たとき、やっつけだったから駄目だったのか、そもそものプランが駄目だったのかが分からないから。究極までやりきって、その結果がどうだったか。前回と同じぐらい完璧にやって、1個だけ変えた結果どうなったか、といった見方を大事にしています。
我々の会話の中には「なんで」「どういうこと」「こっちとどう違うの」というフレーズがよく飛び交います。「何となくいいと思います」ってのはあまり歓迎されない。でも「何となくいいと思うから、これを試してみたい」「こういう結果があったら、何となくいいのか、本当に良かったのかが分かる」ということであれば、試す。そんな職場なんです。
採用PRっぽいことを言いますが、相対する人は、大きい企業だったり、しかるべき役職だったりすることが多いです。
信長の時代、鉄砲を売りに来た人は、あまり偉くなくてもワンチャン信長に会えると思う。信長が鉄砲を欲しているから。そういったことがBtoBにおけるデータマネジメント業界でも求められているわけです。しかし、どこからどうしたらいいのか分からない人ばかり。そこで我々は、いけぽんすが鉄砲を作ってるんです。
ーーーーこんな人に助けてほしい!みたいなことはありますか?
データが揃ってきて、材料は山ほどあるが、より早く美味しい形に調理して届けないと、材料の鮮度がどんどん落ちてきてしまう。そこで、何か料理ができる人をいっぱい求めています。
マグロって、寿司屋がなかったら、あんなに高価じゃないと思うんですよ。キチンと血抜きをして処理をして、そのままだと鮮度が落ちてくる。今、うちにあるものは鮮度高く珍しいし美味しい。けれども、そのままではなかなか口まで届かないから、仲卸や職人さんがいる。最後、人の口に入って美味しいと言ってもらえるまでには時間かかってしまう。今足りていないのはそういうところです。
仲卸、つまりアライアンス。寿司職人ももちろん欲しい。事業開発で言うと、まだ見ぬ変な魚を捕まえに行く人も欲しい。それは漁師かもしれないし、商社で北極の魚を仕入れる人かもしれないですね。