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頑張ってる人の明日をより良いものに
斎藤 雅史/Masashi Saito【CEO】
全力でやるのがカッコいい
ーーー「まささいとう」の作り方を伺おうと思います。どんな子だったのか、どんな風に育ったのかなど。今の斎藤さんに影響してそうなこと、なんでも聞かせて欲しいです!
(笑)何ごとにも、まっすぐに全力で頑張る子供でした。
小学生の時、校内で毎年行われるマラソン大会で、6年連続2位だったんです。いつも、どれだけ頑張っても勝てない同級生が僕の前にいたのですが、中学生になって初めて僕が1位を取ったんです。しかし不本意な勝ちでした。理由は、その1位の彼が女子にモテたいという理由で突然カッコつけ始め(笑)全然ちゃんと走らなくなってしまったから。僕は全力でぶつかり合って獲得したかったのに。
人の目を気にしてカッコつけるのは、僕はカッコ悪いと思っていました。「全力でやるかっこよさ」は今でも大切にしている価値観です。全力でやる方が楽しいし気持ちいいしかっこいいという信条があります。子供のころからそういう一面がありました。
島根の田舎で生まれ、公務員の両親に厳しく育てられた僕にとって、将来進むと思われた道は「公務員」「銀行」「親を継ぐ」ぐらいでした。やりたいことがあっても、大人たちのネガティブな反応や「どうせオレらにはできるわけない」といった周囲の空気を感じていました。幼いころからそういう閉塞感を嫌っていた僕は、型にはめようとするものに対して強い反発心を抱いていました。
ーーー真面目なご両親のもとで育てられながらも、信念を持って反発するそのメンタリティは元々の性分だったと思いますか?
一緒に暮らしていた祖母は、僕や弟が何をしても肯定してくれる人でした。漫画の「宇宙兄弟」に出てくる「シャロン」って分かりますか?あのシャロンのように絶対安心の場所、どんな自分でも受け入れてもらえている感覚がありました。自分の気持ちに正直に、そのままの自分でいていいという考え方はそこで培われたような気がします。
僕、小学校のころから今もずっと毎週ジャンプを読んでいまして(笑)
ジャンプの主人公は、人の悪口を言わないんです。それに、絶対諦めない、苦しいときや強い敵が来たときこそ燃える、悪を許さない、弱い者をいじめない。今、僕のような生き方をしていなければ、ジャンプの主人公たちに申し訳ないような気持ちになってしまいます。ジャンプ・ばあちゃんの影響があって、今の自分ができていると思いますよ。
自分より優秀な人材を束ねて先頭に立ち続ける覚悟
高校のサッカー部でキャプテンを経験したことも、会社経営をする今にとても生きているように思います。
全国選抜に選ばれるようなサッカーのうまい同級生が2人もいるチームで、僕はそんなに上手くはないんですが、メンバーの投票の結果一番情熱的なプレーをするという理由でキャプテンになりました。でも、選んでもらったとはいえ苦しい時期となりました。
ものすごく下手ではないとは思いますが、後輩たちも口にはしなくても「なんで雅史さんなんだろうな」「あっちの先輩の方が上手いのにな」と思っているだろうなと僕自身が思ってしまう。試合で自分がミスをしても、キャプテンが落ち込むとチームが落ち込んでしまうから落ち込んだ素振りは見せられない。一方で人のミスは指摘をしないといけない役回りで、人に指摘するなら自分もミスはできない、でもミスしてしまうというね。なかなかに...思春期でした(笑)
現在のチームにもすごく似た状態を感じています。僕よりずっと優秀なメンバーがどんどんチームに加わっていくわけです。
その人材を束ねていく姿を想像してみたりもしますが、経験済みなので、そこは折れない自信があります。
サッカーと違ってビジネスは、頑張れば頑張るだけ力がつく。身体能力ではない部分で、後天的に能力が上がる。「無理でも諦めずに立ち続ける」「みんなが嫌で逃げたがっても、やり続ける」これが僕の強みだと思うのです。そういう意味でビジネスっていいなって思います。諦めずにやれば自分のレベルを上げていけると思っているので、本気の努力で勝ちを取りにいきたい。すごくいいチームなので、自分のレベルを上げて、ちゃんと先頭に立ち続けたいなと思っています。
日本中で出会った「見返りもないのに与えてくれる人たち」
ーーー大学生のときヒッチハイクで日本1周されたお話、詳しく教えてください。
「英語を使った仕事がしたい」と考え、当時「ツアーコンダクター」ぐらいしか思いつかなかった僕は、海外にも行きたかったのですが、まずは日本を知り、その良さを伝えようと考えました。そのために日本1周の旅に出よう、今しかできないことをやろうと思いました。それが大学3年生の夏。沖縄以外の46都道府県をヒッチハイクで回りました。乗せてもらったのは100台ぐらいかな。
もちろん大変でした。でもTwitterで「やります」と宣言しちゃった手前、これはもうやるしかない(笑)。だいぶタフになったと思います。特にメンタルが鍛えられて「断られる」ことへの耐性がつきました。人に乗せてもらって先に進むためには「乗せたいな」とドライバーに思ってもらわないといけない。面白い助手席トークを考え、喋り、反省を次に活かす。そんなPDCAを回しつつ旅を続けました。
3分の1ぐらいは野宿だったおかげで、幸せの水準が良い意味でだいぶ下がったと思います。今でも外で寝られるし、屋根があって温かいところで寝られる、飯が食える、それだけで幸せです。旅で僕自身の心身が鍛えられたんですよね。
出会った人たちが、僕を車に乗せてくれて、飯もご馳走してくれて、家に泊めてくれました。何の見返りもないと分かっているのに、見ず知らずの僕の背中を押して応援してくれることに、今まで出会ったことのないカッコよさを感じました。世の中にはこういう人たちがいるのだなと驚き、感動して、僕もそうやって生きたいと思ったんです。
それまで「英語を使った仕事をしたいからツアーコンダクターになりたいんだ」とか言っていた自分が、とんでもなく幼く自己中心的だったと気付いたんですよね。そして僕も誰かのために生きる道を模索し始めました。ヒッチハイクの旅は、僕の人生のターニングポイントでもあり、僕自身の土台となるエッセンスとなっているように思います。
ーーーそこから人材業界へつながっていくのですね。
そうですね。旅で出会った人たちの多くが「仕事がしんどい」と言っていて、みんなの仕事がおもしろくなるようにできたら、みんなのためになるのかな、と考え始めたんです。
同じころ、仕事と家庭内のしんどさから家族がうつになるという出来事がありました。いつも元気な人だったのですが、人は一度うつになると驚くほど弱ってしまい、なかなか戻れないんですよね。仕事にもなかなか復帰できず、死にたいと言いながら常に寝ている。僕は実家を離れて進学したため、なんとかしたいけど、直接は何もできない。
家族がもし自分に合った職場に出会えていたら、うつになんてならなかったのかもしれないと考えてた僕は、人材業界に行けば、その問題に着手するか何か影響を与えられるかもしれないと考え人材業界に絞って就活しエン・ジャパンに就職しました。
入社3年目、社内公募のあった新事業にエントリーして異動。「不満買取センター」という部門でした。会社を買い取って子会社化してビジネス側を全て自分たちでやる、みたいな部門です。どこかで「そのうち起業したい」とずっと思っていたのですよね。就活のとき「7年目に自分の解決したい課題を解決する」と漠然と長期目標設定をしていたんですが、あとで見返してみたら昨年が7年目でした。
ーーーおおお!その通りになっていたんですね。ちなみに3年目から「不満買取センター」でひたすら不満を聞くんですか?
そうです(笑)
「不満買取センター」は不満専用のTwitter みたいなサービスで、不満が1日1万件ぐらい投稿されます。人々の不満データをお金で買って、溜まった不満のデータをどうにかお金にするビジネスモデルを考える仕事です。僕ともう1人同僚の先輩がいて、売上0円のところから始めて4年取り組みました。
当初は7人ぐらいだったので、何でも自分たちでやりました。マーケ、インサイドセールス、フィールドセールス、LPのデザイン、展示会の出展計画を立てる、展示会のパネルをデザインするなど、かなり幅広く。この経験はすごく起業に活きたと思います。
ーーーそこでの経験を活かそうと思って起業したのか、ここでは自分のしたいことはできないと思って飛び出したのかどちらですか?
後者に近いです。ここでは解決できない課題があるなと思いました。
とはいえ、この事業を経験したおかげで、ビジネスパーソンとしてすごく成長させてもらえました。経営に関わる経験は、エン・ジャパンで営業をしているだけではできなかったと思います。また、人々の不満を「売る」って、とんでもなく難しいサービスを経験できたのが良かった。最初は100社商談して1社も受注できなかったのですが、最終的に僕が辞めるときには年間3億円を売り上げるまでには成長していました。
その過程で、ナショナルクライアントへの提案が形になったりもして、高いビジネスレベルを要求され、内部のビジネスパートナーに食らいつきながら一緒に仕事をさせてもらいました。
2018年ごろからはAIの事業に舵を切りました。不満のビッグデータを活用して、テキストから不満を解析するAIのモデルを作って売るんです。例えば、HR領域では、従業員日報からストレス不満を解析する・BtoCメーカーでは、お客様の声から解約しそうな顧客を見つけ出すなど。クライアントが保持する顧客データをテキストから解析して、その先に進める。データを組み合わせて価値を生むという構造は、今やろうとしていることに比較的近く、役立っている経験も多いです。
しかし、自分の事業ではないから進められない部分もあり、だったら自分でやろうと思い、退職に至りました。「ここでは解決できない」と思ったものの中に「メンタルヘルスへの取り組み」があります。私の家族のように、うつでなかなか復職できない人も、簡単なクラウドソーシングのような感じで、不満を売ってお金を稼ぐといった新しい働き方を作れないだろうかと考えたんです。
不満買取で解決できるのでは?と思ったのですが、ネガティブな要素のある「不満」をアイディアにして売るという道筋はちょっと遠かったのです。
頑張る人が心を病んでしまう社会を変えたい
2020年4月、退職と同時に創業しました。
実は、うつでなかなか復職できない家族の他にも僕は、営業職だった友人が、成果を出せずに心を病んでしまい、自ら命を絶ってしまうというショッキングなできごとも経験していました。頑張ってまっすぐに生きてる人がなかなか成果が出せなかったり、心を病んでしまう世の中が悲しくて、それを何とかしたい、苦しい思いをなくしたいという思いがありました。
明日も生きていたいと思えるような社会にしたいと考え、最初の事業「Peer Radio」を始めました。
これは、仕事以外の第3の居場所づくりを目的とした、本音でいられる声のコミュニティです。メンタルヘルスの問題解決を目指すアプリのため、「いいね」機能がない・フォロー者数が見えない・最初は完全招待制で1人1人と面談などの特徴がありました。
ダウンロード数は16,000件ぐらいまで伸びましたが、収益化するまでには到達できませんでした。そこまでイメージできていなかったんですね。「いいね」機能がない等の ”承認欲求を駆り立てない設計” が一部の方には受け、課金してくれるユーザーもいましたが、とにかくマスには刺さらないサービスでした。
しかし、コンセプトを変え、フォローや「いいね」を促して収益を上げるのも、広告をバンバン出してユーザーにヘルシーじゃない状態を作るのも違うと考え、2期目は事業転換。営業コンサル事業「キクカチ」を始めました。しかしこちらも、なかなか収益にはつながらないサービスでした。
全ての営業が成果を出せる社会へ
現事業につながるデータベースを始めたのが2022年8月。コンサルのニーズが高く、自分たちの思いを乗せられる事業をやろうと考えまして、それが今、少しずつ伸びてきています。
僕の友人は営業の成果が出せず心を病んでしまった。データベースの活用で営業の成果を上げられる事業が作れたら、頑張って働く人も評価される。メンタルヘルスの課題に寄り添いつつ、会社の売り上げにも貢献できる。いずれもが満たせるのではないかと考えました。それが僕らのやるべきことだと思っています。
頑張るとより良い明日が迎えられて、明日も頑張ろうと思えるような社会を作っていきたい!
単にターゲティングのデータベースが作りたいわけではない、ということをお伝えしたいです。
顧客に「ちょうどそれが欲しかった!」と言われる営業を実現する
現在僕たちは「未来のロイヤルカスタマー」とつながれる顧客データプラットフォームを作っています。
データベースで自社のサービスを欲しいと思うお客さんを見つけられれば「ちょうどこのサービス買いたかったんだよ」と言われるような営業が実現できる。そういう状態を目指しています。アポ取りの仕事も大変なので、そこも自動でできる支援システムを考えました。
社名「datais」に込める思い
datais とは「データ化する」というものの造語です。「data is 〇〇」敢えて〇〇のところを残していて、前株で株式会社datais なんです。我々だけではデータは完結しない。顧客と一緒にデータとは何かっていうのを再定義していく、data is 〇〇を御社と一緒に作りたいですっていうような思いを込めています。
単にセールスのデータベースの会社ではないんです。
僕らぐらいの世代はずっと景気が悪く「失われた30年」とか言われたりして、崩壊したといわれる「バブル景気」も知らない。だから経済成長を知らないまま大人になっている。
国が後ろ向きになってるとか、頑張っても無理だと思ってしまうところも、僕らの事業があれば、各社が利益を出せる状態を作っていける。そうすれば1人1人の給与アップにつながるかもしれないし、頑張れば自分の成果も出て会社も良くなって、個人の暮らしも良くなって、国も良くなっていく。
僕らの子供たちが大きくなった時にまた「失われた60年でしたね」なんてことにならないように。
頑張ったら明日が良くなっていくんだなって人もいて、明日の希望が持てるようにしたい。
頑張ってる人がかっこいい社会にしていきたいなと思っています。